在東京池袋與余華同賞戲劇《兄弟》

2016/04/21


  日經中文網特約撰稿人 藤井省三:在日本,有著將現代中國的文藝作品以戲劇的形式上演的傳統。早在距今約90年前的1927年,胡適(1891~1962)的喜劇《終身大事》就已于橫濱高等商業學校(現今的橫濱國立大學)上演,該校漢語教師武田武雄副教授,不僅給新月派女性作家淩叔華(1904~1990)寄過慕名信,也曾邀請巴金(1904~2005)來自家居住過。

  魯迅的作品上演的尤其多。我第一次觀看中國戲劇已是40年前、還是大學時代的事情,那是由日本戲劇家改編的《阿Q正傳》,且由日本演員來演繹,當然用的也是日語。劇中趙家的女傭吳媽對阿Q頗有意思,孔乙己竟然宣揚革命的大義,對此當時我大吃一驚。20世紀70年代初的日本戲劇人,大概是想將革命意識覺醒的阿Q以及與他團結起來的知識分子、勞動人民描繪出來吧。回憶起來,大概始於此時,我這個「老外」就迷上了中國戲劇,對日本是如何改編中國文學作品饒有興趣。

藤井省三
  於是,當我聽説東京的 「劇團東演」即將上演《兄弟》,且原作者余華(1960~)還會參加首演會,便覺得這個機會千載難逢,不能錯過。小説由泉京鹿女士譯成日文,再由戲曲家改編成劇本,導演和演員再將其舞臺化。這樣經過反覆改編之後的名作《兄弟》在東京將會發生怎樣的變化? 而且劇場「あうるすぽっと」〔Owlspot〕所在的池袋,是中國人多得可被稱為東京的準唐人街,來看日語版《兄弟》的中國人也應該不少吧。 就這樣, 「老老外漢學者」興致勃勃地準備出發了!

  各位讀者看過這本10年前的暢銷書嗎,謹慎起見,我先來介紹一下梗概吧。在日文版出版之際,我曾于《日本經濟新聞》發表過書評,就引用此篇吧。

  長篇小説從文化大革命(1966~1976)開始至今,以距離上海100公里左右的小城市為舞臺,描繪了對比鮮明的兩兄弟的故事。上卷講述了丈夫因不光彩的事故去世的李蘭、與妻子早逝的宋凡平再婚,組建成了幸福的一家,主角李光頭在7歲時與大他一歲的宋鋼結成兄弟。但文化大革命爆發後,原本因是知識淵博的運動員而很有人氣的宋凡平被殘酷的紅色恐怖分子虐殺,李蘭作為地主的兒媳婦而受到私刑虐待。溫柔而又靦腆的母親無論怎麼被毆打都始終堅守著對丈夫的愛,當她看到年幼的兄弟倆不管如何被欺負都從不屈服、互相幫助的情景時不禁落淚。

  上卷第一章裏,描寫了在李光頭出生的那天,其父在公共廁所偷窺女性的臀部而淹死在糞池中,14年後李光頭也同樣因偷窺鎮上第一美女林紅的而被逮捕,其後將這種經歷作為吹噓資本向上爬,這一情形已在上卷中埋下伏筆。下卷則記述了中國自文革時期向經濟改革開放轉變的時期中,李光頭從小鎮的廢品回收起步,通過採購倒賣日本舊套裝獲得大成功之後,甚至舉辦「全國處美人大賽」等荒誕事宜,大肆放縱對金錢和性的欲求。

  另一方面,原本正直而又溫厚的宋剛背叛了弟弟與林紅結婚,但後因工作單位的國有企業進行的調整而被迫下崗,與販賣豐胸霜的騙子成為同夥,為了在路上進行銷售宣傳而接受了豐胸手術,最終窮困潦倒。本書通過上卷悲劇性的家庭劇到下卷的荒誕喜劇,揭示了現代中國社會40餘年黑暗的一面。作者余華內心懷揣著對「暴發戶」及下崗失業者這兩極階層的深切共鳴和同情,以充滿傷感的筆觸進行了描繪。

  下卷第18章中自稱作家的劉氏指出「李光頭變成了魯迅先生曾經描寫的人物」,劉氏所「想不起」的名字應該就是「阿Q」。從清朝到中華民國的變革期,正如魯迅通過《阿Q正傳》來批判中國的國民性一般,可以説身處人民共和國大變革時期的余華亦在批判國民性的文學上取得了很大成就。(2008年9月3日早刊)

  《兄弟》的日文翻譯版上下兩卷共有900頁左右,要如何將這麼多的內容縮減成兩個半小時的戲劇?兄弟二人從幼年成長到中年的這40年過程中會有多少名演員來演繹?究竟會如何向日本人説明毛澤東時代向鄧小平時代、劇變為市場經濟體制的現代中國社會呢?開幕前我的腦海中充滿了疑問。

  出乎意料的是,從觀眾席的通道上一個高個和一個中等身材的兩名男性慢悠悠地登上舞臺,在提醒大家關閉手機等注意事項的同時,自報了家門,「我是劉作家」「我是趙詩人」--在《兄弟》上卷中作為欺負人的角色,下卷為李光頭御用文人的這兩人,也兼任著負責舞臺進程的角色。然後,突然飛奔出來的是穿著中褲的兄弟,這兩名男演員從幼年演繹到中年--〔就是中年〕他們的實際年齡「AROUND 40」(35歲~44歲)。不使用兒童演員而依靠全力以赴的演技,很好地展現了兩兄弟不隨時期而改變的性格。如同京劇般巧妙地反覆使用沒有靠背的長椅和長桌,將那偷窺場景以及原本賢淑的林紅與李光頭陷入情慾的場景,都出人意料地向觀眾展示出來了。

  這部戲劇雖然是濃縮了長篇小説各種要點的超級壓縮劇,但同時也充分地描繪出了通過政治與經濟這股激流衝撞而分裂的父子、母女、兄弟、夫婦的喜怒哀樂。由臺詞來展現的伙食費和月薪的變化,也顯示出了社會的急劇變化。原作者余華對此讚不絕口。幸好《兄弟》的日文普及版已經出版,所以想讀到譯本還是很容易的。小説和戲劇《兄弟》可謂是讓日本人了解現代中國的一條好線索。不過,好像尚未決定何時在日本再演、何時在中國上演。

  與《兄弟》同年上演的日本電影《永遠的三丁目的夕陽》是描寫20世紀50年代東京平民區的作品,聽説溫家寶前總理也觀賞過。中國人是如何看待日本社會的變化的呢?「老老外」興味猶存。

  (翻譯 林敏潔 南京師範大學東語系主任教授)

藤井省三 簡歷
東京大學文學部中文系教授。出生於東京。76年畢業於東大中文系,82年畢業於東大中文系博士研究所。日本學術會議會員(2005-2014年)、日本中國學會理事,中國人民大學海外名師,南京師範大學講座教授。研究領域:現代中國文學、電影。主要研究成果:《魯迅<故鄉>閱讀史》、《村上春樹心底的中國》、《華語圈文學史》、《隔空觀影》(以上都是漢譯本)、《魯迅與日本文學──從漱石、鷗外到清張、春樹》等。

本文僅代表個人觀點,不代表日經中文網觀點。

  本文為中日文對譯版,日語版請點擊下頁


東京•池袋で余華さんと演劇『兄弟』を見て

  藤井省三(東京大學教授)

 日本には現代中國の文蕓作品を演劇として上演するという伝統がある。胡適(フー•シー、こてき、1891-1962)の喜劇「終身大事」が橫浜高等商業學校(現在の橫浜國立大學)で上演されたのは90年ほど前の1927年のこと、同校で中國語を教えていた武田武雄助教授は、新月派の女性作家淩叔華(リン•シューホワ、りょうしゅくか、1904~90)にファンレターを送ったり、巴金(パーチン、はきん又はぱきん、1904~2005)を自宅でホームステイ客としてお迎えしてもいる。

 魯迅の作品は特に多く上演されており、私が最初に見たのは40年以上も前の學部生時代のことで、日本人の戯曲家が改編した「阿Q正伝」を、日本人の俳優が、もちろん日本語で演じていた。趙家の「下女」の呉媽が阿Qに好意的で、孔乙己が革命の大義を説くので、驚いた記憶がある。1970年代初頭の日本の演劇人は、革命意識に目覚めた阿Qや彼と団結するインテリや労働人民を描きたかったのだろう。〔私のような「老外」(外人さん)が、現代中國小説の日本人による改編・上演に関心を抱くようになったのは、この頃からであったろうか。〕

 そのようなわけで、東京の劇団東演が『兄弟』を上演、初日には原作者の余華さん(ユイ•ホワ、よか、1960~)も舞臺挨拶すると聞いた時には、これは見逃せないと思った。中國語の小説が泉京鹿さんにより日本語訳され、それを戯曲家が腳本に改め、それを演出家と俳優たちが舞臺化する──この三重四重の改編により名作『兄弟』が東京でどのように生まれ変わるのか。しかも劇場「あうるすぽっと」がある池袋は、東京の準チャイナタウンとも言えるほど多くの中國人が集まっており、日本語版『兄弟』を見に來る中國人も少なくないだろう。〔かくして「老外漢學家」(老人外人中國文學者)も好奇心に駆られて、出かけることにした。〕

 読者の皆様はこの10年前のベストセラーをお読みになっているだろうが、念のためあらすじを紹介しておこう。日本語訳が出た時に、私は『日本經濟新聞』に書評を書いているので、それを引用したい。

 文化大革命(一九六六~七六)から現在まで、上海から一〇〇キロほど離れた小都市を舞臺に、対照的な二人の兄弟を描く長編小説である。上巻では夫を不名譽な事故で亡くした李蘭と、妻に先立たれた宋凡平とが再婚して幸せな一家となり、主人公の李光頭は七歳の時に一つ年上の宋鋼と義兄弟となる。だが文革が勃発し、博識のスポーツマンで街の人気者だった宋は殘酷な赤色テロにより虐殺され、李蘭は舊地主の息子の妻としてリンチに會う。やさしいが內気だった母が、いくら毆られても夫への愛を貫き通し、幼い兄弟があらゆるイジメにも屈することなく、助け合う姿には思わず落涙した。

 実は上巻第一章で、李光頭が生まれる日に父が公衆便所で女性の尻を覗き見して肥溜めで溺死し、一四年後に李も街一番の美女林紅の尻を覗き見して逮捕されるものの、目撃談を売り物にのし上がっていくようすが、予告的に描かれている。そして下巻は中國が文革から改革開放經濟體制へと転じる中、李が小都市での廃品回収から始めて、日本での古著スーツ買い出し事業で大成功、さらに「全國処女膜オリンピックコンテスト」を開催するなど、金銭欲と性慾を全開させていく。

 いっぽう正直で溫厚な宋鋼は弟を裏切って林紅と結ばれるが、やがて勤務先の國有企業をリストラされ、豊胸クリームを売る詐欺師の仲間となり、路上宣伝用に豊胸手術を受けて沒落していく。本書は上巻では悲劇のホームドラマにより、下巻ではグロテスクな喜劇により、現代中國四〇餘年の暗黒部を暴いている。作者の余華は「新富人」とリストラ失業者という両極の階層を、秘かに深い同情と共感を抱きながら、ペーソスたっぷりに描きだしたのだ。

 下巻一八章で自稱作家の劉が「李光頭は魯迅先生の描いたある人物になった」と指摘するが、劉が思い出せないその名前とは「阿Q」である。清朝から中華民國への転換期に、魯迅が「阿Q正伝」により中國人の國民性を批判したように、余華もまた大変革期の人民共和國において、堂點たる國民性批判の文學を成就したといえよう。(2008年8月3日朝刊)

 『兄弟』日本語訳は上下二巻で全九〇〇頁ほど、これを二時間半のお芝居にどうやって縮めるのか、兄弟二人が幼少期から中年まで成長していく四〇年の過程を、何人の俳優で演じるのか、そもそも毛沢東時代から鄧小平時代、そして市場經濟化の現代へと激変していく中國社會をどのように日本人に説明するのか・・・・開幕前の私の頭の中は疑問符で溢れていた。

 ところが客席の通路をのっぽと中背の二人の男性がブラブラ歩いて舞臺に登ると、攜帯は切ってね等點注意するうちに、僕は劉作家、僕は趙詩人と名乗りをあげる──『兄弟』上巻ではイジメ役、下巻では李光頭の御用文人となる二人は、舞臺では進行役も兼ねているのだ。やがて飛び出してくるのは半ズボン姿の兄弟で、この二人の男優さんが幼少期から中年──すなわち彼らの実年令「アラフォー」──までを演じていく。子役を使わぬまさに體當たりの演技が、兄弟の時を経ても変わらぬ性格を良く表現していた。背もたれのない長椅子と長テーブルを京劇の如く巧みに使い回し、例の覗き見場面と貞淑だった林紅が李との情慾に溺れていく場面とを意表を突く演出で見せてもいた。

 長篇小説の要所要所を押さえたスーパー•ダイジェスト劇でありながら、政治と經濟との二つの激流により引き裂かれる親子兄弟夫婦の喜怒哀楽をたっぷり描き出している。臺詞で語られる食費や月給の激変は、社會の急変を端的に示している。原作者の余華さんも、お見事、と頻りに感心していた。幸い『兄弟』日本語訳は文庫版が出ていて手に取りやすい。小説と演劇の『兄弟』は、日本人にとって現代中國を知るための良い手掛かりであろう。但し日本での再演と中國での上演は未定とのことである。

 ところで『兄弟』と同年の日本映畫『ALWAYS 三丁目の夕日』は、一九五〇年代の東京の下町を描いており、溫家寶•前首相もご覧になったという。中國人は日本社會の変化をどのように見ているのだろうか?「老外漢學家」の興味は盡きない。

著者略歴
1952年生まれ。1982年東京大學大學院人文係研究科博士課程修了、1991年文學博士。1985年桜美林大學文學部助教授、1988年東京大學文學部助教授、1994年同教授、2005~14年日本學術會議會員に就任。専攻は現代中國語圏の文學と映畫。主な著書に『中國語圏文學史』、『魯迅と日本文學──漱石・鷗外から清張・春樹まで』、『村上春樹のなかの中國』、『中國映畫 百年を描く、百年を読む』など。

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