老外漢學家的車轂轆話(7)杭州的魯迅櫻

2017/05/19


  日經中文網特約撰稿人 藤井省三:今年三月中旬訪問南京之際,依然正逢櫻花盛開。去年亦是同一時期來訪,南京的櫻花開得要比東京早一至兩周--雖説南京與東京基本處於同一緯度。話説北京的櫻花開花期也是在三月中旬,比日本的東北及北海道早了近一個月……我尋思著中日兩國的櫻花,又踏上了南下杭州之旅,竟然看到了魯迅親手種下的櫻花樹。

  

藤井省三

  談及魯迅與櫻花,令人想起其短篇《藤野先生》。1902年1月畢業於南京礦路學堂的魯迅,3月即與5名同級生們一起踏上了日本留學之旅,4月4日于橫濱登岸。那時東京正逢賞花之際,《讀賣新聞》4月10號刊登了一則關於在向島折了根櫻花的樹枝、且粗暴對待巡警的醉漢被處以罰款並拘留10日處分的新聞。魯迅在24年後發表的《藤野先生》中記敘道:「上野的櫻花爛熳的時節,望去確也像緋紅的輕雲。」

 

  在其他的作品中,魯迅將春天在上野公園的賞花與冬天在仙台·松島的觀雪,一併作為自己留學時代的回憶列舉出來。在寄給日本友人的信中,也用日語寫著「櫻花盛開的時節即將來臨」。魯迅在日本留學期間,想必每年都在期待著賞花吧。

 

  魯迅在東京的預備學校學習兩年後,進入了仙台醫學專業學校(現東北大學醫學部)學習,雖然接受了《藤野先生》的主人公--藤野嚴九郎教授的細心指導,但是僅一年半便中途退學,之後回到東京,從事了3年的文學批評研究和實踐以及歐美文學的翻譯工作。雖然該文學運動取得了很大的成果,奠定了魯迅步入作家行業的基礎,但那是10年以後的事情了。1909年8月,魯迅用盡留學資金歸國。

  

  回國後的魯迅最初就職於杭州浙江兩級師範學堂。在同年9月份開始的一學年期間,魯迅邊從事著化學和生理學的教學工作,邊為日本老師鈴木珪壽的植物學課程做口譯工作。這所師範學堂便是現在的杭州高級中學,該校作為杭州的名校廣為人知。此次我應杭州師範大學日語系之邀前來演講,借此得以再次拜訪闊別了37年的杭州,托孫立春副教授的福,參觀魯迅先生最初工作地的願望也終於得以實現。

  

  從孫先生還未發表的論文《魯迅、夏丐尊和日本教習關係考察》中可得知,1906年創建的浙江兩級師範學堂從校舍建築到學制、課程安排都是模倣東京高等師範學校(現在的筑波大學),而且在魯迅到此任教前後共聘用了10名左右的日本人"教習"。在兩三年的任期中,他們負責教授博物、圖畫、音樂、手工等課程,最高月薪達到了300銀元,受到了和明治時期日本對"受聘外國人"同等的優厚待遇。

  

老外漢學家的車轂轆話

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  日本「教習」將日本的師範學校的嚴格管理教育帶到了杭州,如把上課時學生打哈欠(的舉動)作為過失記錄下來,此舉受到了學生方面的反對。「作為調解人的魯迅」講了這樣一個道理--「從教員的立場來看,學生們在課堂上沒有集中注意力聽講;從學生的立場來看,教員的授課不夠引人入勝。既然記一人過遭到反對,那不如全員記過,而全員記過等同於沒有記過。」據説這起事件因此平息了下來。不知這是否是摹倣了東京聽的幽默落語段子中的隱居者。

   

  雖然倣造東京高等師範大學建造起來的洋館校舍群有一半在火災中被焚燬了,但是殘留的部分成了現在的杭州高級中學,被完好地保護著。裏面一棟名為「一進行政樓」的兩層建築,其二樓的一個小閣樓被設為魯迅紀念室。在那裏展示著由魯迅編寫的教科書《生理學講誼》,以及被認為是魯迅在杭州名勝地西湖湖畔用來採集植物的金屬採集箱等等。牆上張貼的幾幅佚名作者描繪的魯迅授課情景畫,成了追憶往昔的一縷頭緒。

  

  參觀完舊師範學堂的洋房,繞至校舍背面,便能見到相傳由魯迅親手種的伸著高高的枝丫的兩株櫻花樹,樹底下立著刻有「櫻花文會」四個字的石碑。據帶我們參觀的高級中學的教師所述,每年櫻花開花時節、杭州約700位高中生便聚集在一起召開魯迅文學集會。由此我想到此地魯迅所栽的櫻花已成為中日文化交流的象徵,不禁感慨萬千。只是唯一遺憾的是:這天杭州的櫻花並沒盛開,我想等什麼時候魯迅的櫻花再度盛開之實再來拜訪此地。

 

  有關魯迅與師範學堂之間的淵源,高寧編著的《百年名校 杭州高級中學》(浙江教育出版社)也進行了詳細地描述。

 

  (翻譯 林敏潔 南京師範大學東語系主任教授)

 

藤井省三 簡歷

東京大學文學部中文系教授。出生於東京。76年畢業於東大中文系,82年畢業於東大中文系博士研究所。日本學術會議會員(2005-2014年)、日本中國學會理事,中國人民大學海外名師,南京師範大學講座教授。研究領域:現代中國文學、電影。主要研究成果:《魯迅<故鄉>閱讀史》、《村上春樹心底的中國》、《華語圈文學史》、《隔空觀影》(以上都是漢譯本)、《魯迅與日本文學──從漱石、鷗外到清張、春樹》等。

 

本文僅代表個人觀點,不代表日本經濟新聞(中文版:日經中文網)觀點。

 

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「老外漢學家」の繰り言(7)杭州の魯迅桜 

 

  藤井省三(東京大學教授)

 

 今年も3月中旬に南京を訪問したところ、やはり桜が満開だった。去年も同時期に來訪したところ、開花は南京の方が一、二週間早かった──南京も東京もほぼ同じ緯度なのに。そう言えば北京でも3月中旬に桜が開花し、日本の東北や北海道よりも一カ月近く早い・・・・と日中両國の桜のことを考えながら、杭州にも足を伸ばしたところ、なんと魯迅お手植えの桜に出會ったのである。

 

 魯迅と桜と言えば、短篇「藤野先生」を思い出す。1902年1月に南京の礦路學堂を卒業した魯迅は、三月に五名の同期生らとともに日本留學の旅に出て、四月四日に橫浜に上陸している。當時の東京は花見の真っ盛り、向島で桜の枝を折って巡查に亂暴した酔漢が罰金と拘留10日の処分を受けたという記事を、『読売新聞』4月10日號が載せている。それから24年後に発表した「藤野先生」で、魯迅は「上野の桜が満開のころ、遠くから見ればばたしかにふわりとした紅〔くれない〕の雲のようだ」と記しているのである。

 

 ほかの作品でも、魯迅は留學時代の思い出として、冬の仙台・松島の雪見と並べて春の上野の花見を挙げている。そして日本の友人宛ての手紙でも、「桜の咲く時節も來る様」と日本語で記している。日本留學時代の魯迅は、毎年お花見を楽しみにしていたのであろう。

 

 魯迅は東京の予備校で2年間學んだ後、仙台醫學専門學校(現在の東北大學醫學部)に入學し、「藤野先生」の主人公である藤野厳九郎教授の丁寧な指導を受けたものの一年半で中退し、東京に戻って三年の間、文蕓批評の研究と実踐および歐米文學の翻訳に従事した。この文學運動は多くの成果をあげ、魯迅の作家修業の基礎となるのだが、それは一〇年ほどのちの話で、1909年8月には留學資金が盡きて帰國している。

 

 帰國後の魯迅が最初に就職したのが、杭州の浙江両級師範學堂であり、彼は同年9月より一學年の間、化學と生理學の教鞭を取るかたわら、日本人教員の鈴木珪壽による植物學講義の通訳も務めた。この師範學堂の後身が、現在の杭州高級中學であり、同校は杭州の名門高校として知られている。今回私は、杭州師範大學日語係より講演のお招きを受けて37年ぶりに杭州を訪れたのだが、孫立春副教授のお世話で、魯迅最初の職場の參観という夢も葉えられたのである。

 

 孫さんの未発表論文「魯迅、夏丏尊與日本教習関係考」によれば、1906年創建の浙江両級師範學堂は校舎の建築から學制、教育課程に至るまで東京高等師範學校(現在の筑波大學)を模範としており、魯迅著任前後に10人前後の日本人「教習」を招聘したという。彼らは二、三年の任期で博物、図畫、音楽、手工などの課程を擔當し、最高300銀元の月給を支給されるなど、明治日本における「お雇い外國人」にも似た厚遇を受けていた。

 

 日本人「教習」は日本の師範學校での厳しい管理教育を杭州に持ち込んだようすで、授業中の學生の欠伸を過失として記録して、學生側の抗議を受けた。その仲介役に立った魯迅は、教員の立場から見れば學生は聴講中に集中力を欠いており、學生の立場から見れば授業は魅力に欠けているわけであり、一人の過失として記録して學生の反対を招くのであれば、學生全員の過失として記録するのがよろしいが、全員過失ありでは記録しないのと同じこと・・・・と理屈を述べて、この事件を靜めたという。東京で聴いたユーモラスな落語のご隠居さんの口真似をしたのであろうか。

 

 東京高師を模して建造された洋館校舎群の半分は火災で焼失したものの、殘りは現在の杭州高級中學に引き継がれ、大切に保管されている。その內の一棟である「一進行政樓」という二階建ての上階の一室は魯迅記念室となっており、魯迅編の『生理學講誼〔原文ママ〕』の教科書や、魯迅が杭州の名勝地である西湖湖畔で植物採集に使ったと思われるブリキ製の採集箱などが展示されていた。作者不明の魯迅の授業風景などの絵も數點掲げられており、往時を偲ぶ良い手掛かりとなる。

 

 舊師範學堂洋館の見學を終えて、校舎の裏手に回ると魯迅手植えという伝説の桜二株が高く枝を伸ばしており、根元に「桜花文會」の四文字を刻んだ石碑が蟠踞していた。ご案內の高級中學教員のお話では、毎年開花時期には杭州の高校生700人が集まり、魯迅文學集會を開くとのこと。この地では魯迅の桜が日中文化交流のシンボルなのだ、と思うと私は感無量であった。この日はあいにく杭州の桜は開花していなかったが、いつかまた魯迅桜が咲く頃にこの地を再訪したいと思う。

 

 魯迅と師範學堂との関わりについては高寧編著『百年名校 杭州高級中學』(浙江教育出版社)も詳しく述べている。

 

著者略歴

1952年生まれ。1982年東京大學大學院人文係研究科博士課程修了、1991年文學博士。1985年桜美林大學文學部助教授、1988年東京大學文學部助教授、1994年同教授、2005~14年日本學術會議會員に就任。専攻は現代中國語圏の文學と映畫。主な著書に『中國語圏文學史』、『魯迅と日本文學──漱石・鷗外から清張・春樹まで』、『村上春樹のなかの中國』、『中國映畫 百年を描く、百年を読む』など。

 

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