老外漢學家的車轂轆話(10)由首爾的「中國電影論壇」想起
2017/08/30
日經中文網特約撰稿人 藤井省三:最近,在首爾的東國大學講授現代中國文學的金良守教授邀請我在一場國際研討會上發表演講。金教授研究領域從魯迅到現代中國電影,涉及甚廣的中國文化,乃我二十年來的研究夥伴。他亦精通日語,曾將拙作《華語圈文學史》以及中國電影論等翻譯成韓文。
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藤井省三 |
良守先生在郵件裏説道,自2005年以來,他和朋友們一直持續舉辦著名為「中國電影論壇」的研究會。因為研究會將於明年8月迎來第100屆,所以他們決定邀請東亞各地的研究者,在首爾舉辦國際研討會。這十年間,在以中國為首的東亞地區中,現代中國文學國際研討會激增,良守先生亦充分利用大學教學研究之餘奔赴東亞各地。其間,「中國電影論壇」研究會即將迎來百屆實在可喜可賀。因而我也立刻致信,欣然允諾。
儘管研討會在一年後舉辦,但演講題目必須在兩周內提交。在由如此勤勉的首爾「中國電影論壇」主辦的研討會上,自己作為日本的現代中國文學研究者該講些什麼好呢……思索中,不禁回想起了這半個世紀來觀賞中國電影的經歷。
我最初觀看的中國電影是歌劇《白毛女》(1950),這已是1970年左右高中時代的事情了。那應該是在由著名的中國評論家兼魯迅文學翻譯家的竹內好先生(1910-1977)主辦的「中國會」的月例會上放映的。
《白毛女》來源於中日戰爭期間1940年代初在河北省西北部廣為流傳的「白髮仙姑」的傳説,後被改編成革命宣傳電影,講述了貧苦佃農之女因飽受地主的迫害而躲藏在深山、最終被八路軍救出的故事。儘管如此,少女險渡河川深居洞窟,頭髮和衣服都變雪白等以水和大地為背景來講述死亡與重生的神話,令我深受感動,至今仍記憶猶新。順帶一提,在中國的習俗中,白色是象徵著死亡的顏色。大學時我選擇了中國文學系,除了對魯迅的關注,也是出於《白毛女》帶給我的那份感動。
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1979年,我作為首批中日兩國政府的交換留學生來到中國,在上海復旦大學度過了一年時光。至今仍記得那期間看過的《她倆和他倆》、《小字輩》等電影,這些作品在日本及歐美留學生中口碑慘澹。輕鬆的戀愛喜劇結合上「四個現代化」政策的宣傳、再加上選用了缺乏喜劇才能的演員,這部電影將這些元素生硬地糅合在一起,使(其描繪的)愛情深度與新意皆無。故事以當時的上海為背景,但公交司機與售票員卻穿著時髦的制服等細節,大概是因為讓人感受到缺乏真實感的緣故從而導致其評價不佳吧。當我後來得知《她倆與他倆》的導演正是建國前(1947年)將張愛玲(1920~95)擔任編劇的喜劇傑作《太太萬歲》搬上銀幕的桑弧導演時,一時間竟覺得難以置信。
另一方面,《不是為了愛情》(導演:向霖,編劇:楊韜、崔長武)以及1980年的電影《405謀殺案》(導演:沈耀庭,編劇:于本正 、沈耀庭)是以文化大革命(1966-1976)末期、「四人幫」被逮捕前後的歷史時期為背景的愛情電影和懸疑電影,記憶中這兩部電影也極富娛樂性。
我來中國留學的兩年前,即1977年,日本便出現了由東光德間主辦的中國電影節,那時文革才結束一年。雖然第一屆電影節上展映的電影以《東方紅》等文革前的作品為主,但到了1981年,由謝晉執導的《天雲山傳奇》便得以上映。影片講述了一個被打成「右派」下放成馬車夫的天雲山特區原領導,被打壓後仍孜孜不倦地推進山區考察,文革後他終於在昔日戀人的幫助下得到平反重返原職的故事。1983年則有由孫羽執導的,描繪了一個在惡劣的生活環境下頑強奮鬥的女醫生的電影《人到中年》(原作:諶容),由丁蔭楠執導的描繪在改革開放政策下的上海發生的一名高級幹部的女兒與工人相愛的電影《逆光》等優秀作品。這些巧妙地講訴現代中國社會百態電影的登場,減弱了對79年攝製的戀愛喜劇慘澹的印象。
之後便是1985年陳凱歌執導的《黃土地》上映,該影片給予了日本的影迷們極大的震撼。在此之前,對中國感興趣的人佔了中國電影節觀眾的大多數。但自1985年,中國電影節引起了日本影迷的廣泛關注,日本、歐美電影的評論家亦開始點評中國電影。
我是在1991年的時候開始寫中國影評的。雖説日本、歐美的電影評論家對中國電影的評論也有比較犀利的地方,但是由於對同時代中國的認知不足、時不時也有些不中肯的言論。儘管現在法國電影的評論家不懂法語的可能是少數,但在當時的日本,不懂中文的評論家所撰中國電影的評論卻佔了大數。於是,我思考著一部中國電影要如何描繪近代中國百年歷史?那些中國電影為何會出現有意無意的誤讀?試想解讀這些問題,因而開始提筆撰寫。
不過,現在的中國電影呈現出百花齊放之態,但如《不是為了愛情》、《天雲山物語》等描繪20世紀50年代、70年代世態的作品也逐漸變少……
以首爾的良守先生發來的郵件為契機,我對近半個世紀的中國電影的記憶變得鮮活生動起來。那麼,在一年後的研討會上,面對東亞的中國電影研究者,我該講些什麼呢--儘管論題的截止日期已僅余數日,卻仍難以決定。
(翻譯 林敏潔 南京師範大學東語系主任教授)
藤井省三 簡歷
東京大學文學部中文系教授。出生於東京。76年畢業於東大中文系,82年畢業於東大中文系博士研究所。日本學術會議會員(2005-2014年)、日本中國學會理事,中國人民大學海外名師,南京師範大學講座教授。研究領域:現代中國文學、電影。主要研究成果:《魯迅<故鄉>閱讀史》、《村上春樹心底的中國》、《華語圈文學史》、《隔空觀影》(以上都是漢譯本)、《魯迅與日本文學──從漱石、鷗外到清張、春樹》等。
本文僅代表個人觀點,不代表日本經濟新聞(中文版:日經中文網)觀點。
本文為中日文對譯版,日語版請點擊下頁
ソウルの「中國映畫フォーラム」で思い出すこと
藤井省三(東京大學教授)
最近、ソウルの東國大學で現代中國文學を講じている金良守教授から、國際シンポでの講演を依頼された。彼は魯迅から現代中國映畫まで幅広く中國文化を研究しており、私の二〇年來の研究仲間である。日本語も堪能で、『中國語圏文學史』や中國映畫論の拙著を韓國語訳して下さったこともある。
良守さんのメールによれば、2005年以來友人たちと「中國電影論壇」という研究會を続けており、それが來年8月で100回目を迎えるので、東アジア各地から研究者を招聘し、ソウルで國際シンポを開催するというのだ。この十年、中國を始め東アジアでの現代中國文學國際シンポが激増し、良守さんも大學での研究教育の合間を縫って東アジア各地を飛び回っている。その中で、「中國電影論壇」研究會が百回を達成するというのは実にめでたいことである。私はさっそく快諾のメールをお返しした。
シンポは一年後に開催でも、講演題目は二週間以內に送らねばならない。勤勉なるソウル「中國電影論壇」が主催するシンポで、日本の現代中國文學研究者として私は何を話したら良いだろう・・・と考えるうちに、自分の半世紀來の中國映畫體験が思い出されてきた。
私が最初に見た中國映畫は歌劇『白毛女』(はくもうじょ、一九五〇)で、一九七〇年頃の高校時代ことである。それは、中國評論家で魯迅翻訳家としても著名であった竹內好(たけうち・よしみ、一九一〇~七七)が主催する「中國の會」の月例會で上映されたものではなかったろうか。
『白毛女』というのは、日中戦爭期の一九四〇年代はじめに河北省西北部に広まった白髪の女仙人の伝説で、地主に迫害されて山に隠れた貧農の娘が共産黨軍に救われるという革命宣伝の映畫だ。それでも少女が川を渡り山の洞窟に住み髪も服も白色化するなど、水と大地を背景に死と再生の神話が語られており、私も大変感動した記憶がある。ちなみに白とは中國の習俗では死を象徴する色である。大學で私が中國文學科に進學したのも、魯迅への関心のほか、『白毛女』の感動によるものであった。
一九七九年に、第1回日中両國政府交換留學生として中國に渡った私は、上海の復旦大學で一年間を過ごした。その間に見た映畫として『她倆和他倆』(雙子の彼女と雙子の彼氏)、『小字輩』(若い世代)などを覚えているが、これらの作品は、日本や歐米の留學生の間では、慘憺たる評判だった。お手軽な戀愛喜劇と「四つの近代化」政策宣伝とを、コメディアンとしての才能に乏しい俳優を動員して無理やり結合したものであり、愛情に深みも新味もなく、當時の上海を舞臺としながらバスの運転手や車掌がお灑落な制服を著ているなど、リアリティーに乏しかったからであろう。のちに『她倆和他倆』の監督が建國前の1947年に張愛玲(チャン・アイリン、ちょうあいれい、1920~95)腳本の傑作喜劇『太太萬歳』(奧様萬歳)を映畫化した桑弧監督と同じ人だと知った時には、俄に信じられなかったほどである。
その一方で、『不是為了愛情(愛のためではなく)』(監督は向霖、腳本は楊韜・崔長武)や 1980年の映畫『405謀殺案(405號室殺人事件)』 (監督: 沈耀庭、腳本: 于本正 / 沈耀庭)は、文化大革命(1966-76)末期の「四人組」逮捕事件前後を舞臺とする戀愛ものとサスペンスもので、エンターテインメントとしても良くできていた、という印象を受けた記憶も殘っている。
私の中國留學二年前の一九七七年には、日本では東光徳間の主催による中國映畫祭が始まっている。それは文革終熄の翌年のことで、第一回目は『東方紅』など主に文革以前の映畫が中心であったが、一九八一年ともなると謝晉監督『天雲山物語』が上映された。これは「右派」として馬方に左遷された天雲山特別區の指導者が、その後もこつこつと山區の調查を進め、文革後に昔の戀人の助けにより名譽回復して指導者に返り咲くという物語である。一九八三年には劣悪な生活環境で奮闘する女醫を描いた孫羽監督『人、中年に到る』(原作:諶容)、改革・開放政策下の上海で繰り広げられる高級幹部の娘と労働者の戀を描いた丁蔭楠監督『逆光』など、現代中國の世相を巧みに語る作品も登場し始め、七九年製作の戀愛喜劇の慘憺たる印象は薄らいでいった。
そして一九八五年に陳凱歌監督『黃色い大地』が登場し、日本の映畫ファンに衝撃を與えるのだ。それまでは中國映畫祭の観客は中國に関心を持つ人が大多數を佔めていたものだが、この年から広く日本の映畫ファンの注目を集めるようになり、日本や歐米映畫の評論家たちが中國映畫批評を書き始めたのである。
私自身が中國映畫批評を始めたのは、一九九一年のことだった。日本・歐米映畫評論家の中國映畫批評は鋭いところもあるのだが、同時代中國に関する知識が不足しており、時點的外れの議論が散見された。今でもフランス語を理解しないフランス映畫批評家は少數派だろうが、當時の日本では中國語を理解しない批評家による中國映畫批評が大多數を佔めていたのだ。そこで私はある中國映畫作品が近代中國一〇〇年をいかに描こうとしているのか、時には故意に時には無意識になぜ誤読しているのか、を読み解こうと思い、筆を執ったのである。
それにしても、現在の中國映畫は百花斉放の絢爛たる狀況を呈しているいっぽうで、『不是為了愛情、愛のためではなく)』や『天雲山物語』のように一九五〇年代や七〇年代の世相を描く作品は少なくなった…
ソウルの良守さんからのEメールがきっかけで、半世紀近い中國映畫の記憶が鮮やかに甦ってきた。それでは一年後のシンポでは、東アジアの中國映畫研究者を前にして、何を語るべきか──題目の締切は數日後に迫っているのに、未だに決めかねている次第である。
著者略歴
1952年生まれ。1982年東京大學大學院人文係研究科博士課程修了、1991年文學博士。1985年桜美林大學文學部助教授、1988年東京大學文學部助教授、1994年同教授、2005~14年日本學術會議會員に就任。専攻は現代中國語圏の文學と映畫。主な著書に『中國語圏文學史』、『魯迅と日本文學──漱石・鷗外から清張・春樹まで』、『村上春樹のなかの中國』、『中國映畫 百年を描く、百年を読む』など。
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