老外漢學家的車轂轆話(13)多重「自畫像」的記憶-——山形電影節所觀中國電影紀錄片
2017/12/27
13回 多重の「自畫像」としての記憶──山形映畫祭で見た中國ドキュメンタリー映畫 藤井省三(東京大學教授)
去る10月、日本の東北地方に位置する山形市に出かけて來た。國際ドキュメンタリー映畫祭に參加するためである。山形では1989年に市制施行100週年記念として開催された映畫祭が、その後も2年に一度の行事として続いており、毎回、中國語圏映畫ファンも大勢詰め掛けているのだ。
今回特に感銘を覚えた作品は章夢奇監督『自畫像:47KMに生まれて』(原題:自畫像:生於47公里、2016年製作、102分)だった。冒頭、焼畑の煙で覆われた朦朧とした風景が長回しで映し出されると、それは監督の父の故郷の山村である。やがて老婆が、燃料にするのだろうか、長い枯れ枝を引きずりながら家路を辿り、そして八回の出産経験を語り始める──1966年に初産、次は1968年、いや〇〇年だったか・・・・いつも一人で産み、野良仕事の最中に陣痛が始まってしまい、他人の家の豚小屋で生んだ時には、苦痛の余り失神、意識が戻ってから全て自分で処理した等點。出産時に夫や姑はどうしていたのか、と気になるが、それについては老婆は沈黙している。そもそも老婆の方言は私には全く理解できず、日本語字幕が頼りである。
続いて可愛らしい母親が自宅を背景に登場し、子供時代にはこの村にも遊び仲間が大勢いて、たいそう賑やかだったこと、中學時代には男の子たちにモテたこと、広東省の工場に働きに出て、民工〔都市に出稼ぎに來た農民労働者〕仲間の夫と知り合い結婚したことなどを語る。その間にも彼女が赤ちゃんをあやす様子や、出稼ぎから一時帰宅した夫との睦まじい様子などが映し出される。彼女の言葉は「普通話」(標準語)なので、私にも聴き取れた。
こうして老婆と若い母とが交互に自伝を語るに従い、この村の現代史が朧気ながら見えてくるのである。ちなみに二人の男性老人も登場するものの、家の入り口の框に腰をおろしてたまま、ひたすら煙管を吹かすだけである。火皿に詰めるタバコの葉は、私には枯葉のように見えた。
鶏の一群が高い木の枝に飛び移ろうとする、影絵風のロングショットも印象的だった。鶏はバタバタと羽音を立てて地面から小屋の屋根に飛び上がり、それから樹上へと次點に羽ばたいて行くのだが、最後の鶏は何度も失敗した後、ようやく高木の枝の仲間たちに加われるのだ。樹上の鶏群という見たことのない光景に見取れる內に、私にはこれは農民の忍耐強さ、たくましさを代弁するものでもあるのかな、と思われてきた。
上映後のトークに登場した章監督は、二〇代の女性であり、2011年以來毎年この村に通ってメモリープロジェクトの一環として撮影を行ってきたという。老婆はなぜ出産の話しかしないのか、という観衆の質問に対して、彼女は、男たちが戦爭や政治など大きな話ばかりするのに対し、老婆は本當に出産と子供の話しかしなかったのです、と答えていた。
夫との関係が良くなかったと想像される老婆にとって、苦しみを伴う出産こそが、わが人生の記憶の核心なのであろう──生んだ子供の半數は夭逝しているのだが。そして語りたくない経験は、焼畑の煙で覆われた村の風景のように朦朧として忘卻の彼方に流れていくのだろうか。
老若數名の女性のあるいは朦朧とした、あるいは鮮明な記憶は、彼女たちの自畫像であり、このような自畫像を重ねて行くと、そこに山村共同體の「自畫像」が浮かび上がってくる──それが章監督ドキュメンタリーの方法であるのかもしれない。
そもそも父の故郷の村に通い続ける彼女にとって、老女が語る記憶とは彼女自身のルーツ探求の手掛かりであり、同世代の若い女性が語る記憶とは彼女自身が體験したかもしれない同時代史でもある。この村に深い共感を寄せている章監督にとって、本作は彼女の「自畫像」でもあるのかもしれない。
山形國際ドキュメンタリー映畫祭では、『自畫像』のほかに、中國のドキュメンタリー映畫祭に関するドキュメンタリー映畫や、『翡翠の城』(原題:翡翠之城)などの台灣・香港の作品にも深い印象を受けた。また中國のインディペンデント・ドキュメンタリー映畫の歴史と現狀に関しては、秋山珠子氏の論文「「カルチュラル・アサイラム」(立教大學江戸川亂歩記念大衆文化研究センター発行『大衆文化』第16號、2017年3月)が詳しく論じている。
著者略歴 1952年生まれ。1982年東京大學大學院人文係研究科博士課程修了、1991年文學博士。1985年桜美林大學文學部助教授、1988年東京大學文學部助教授、1994年同教授、2005~14年日本學術會議會員に就任。専攻は現代中國語圏の文學と映畫。主な著書に『中國語圏文學史』、『魯迅と日本文學──漱石・鷗外から清張・春樹まで』、『村上春樹のなかの中國』、『中國映畫 百年を描く、百年を読む』など。
本文は著者個人の見解であり、日本經濟新聞社の見解を代表するものではありません。 |
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